■体験談
■阪神大震災体験者の場合
 聴覚障害者の妻と2人暮らし。地震発生時は、自宅の二階に居た。したから突き上げるような揺れが起こり危険を察して家中の家具が倒れた中を逃げようとしたが、しかし自分も妻も聴覚障害者なのでお互いコミュニケーションが取れない。必死の思いで妻の手を取り、家から外に出ようとしたが、玄関のドアが斜めに傾きドアが開かない。困っていたところに、私たちを心配してくれた近所の人たちが助けに来てくれた。外に出てみると自宅はあちこちで壁が剥げ落ち傾いて全壊の状態だった。周囲の家も同じような状態だった。
 とりあえず近くの避難所に向かったがいっぱいで入れなかった。どこへ行けばいいか分からず、回りの人たちに尋ねようと思ったが苛立っている様子なので、とても聞ける状況ではなかった。FAXも壊れてしまったので、他との連絡手段も断たれた。その後、自力で別の避難所へ行き、何とか水と食料を得ることができた。其のときは嬉しくて涙が出た。避難所では情報が伝わってこない。いつ食料や水の配給があるのか、わからないので、他の人が配給場所へ行くというような気配で探るしかなかった。また、配給は夜中にもあることがあり、他の人の気配を探るため妻と交代でおきていたが、寝ていても安心して寝ることはできなかった。避難所にはラジオがあったが、自分達には役に立たない。テレビやFAXが備わったのはしばらくしてからだった。手話通訳者にきてほしかったが、自分たちの所にはこなかった。
 余震もおさまり仮設住宅の申し込みが始まった。私たちも申し込みに市役所に出かけたが、手話通訳者がおらず通じなかった。しばらくして、ようやく手話通訳がきて申し込みすることができた。無事に住宅に入れるようになり、ボランティアや役所の人の手を借りて、その住宅の掃除や修理を済ませることができた。また、FAXや補聴器などももらうことができて、そこでようやく安堵の息をつくことができた。今、震災を経験しておもうことは情報不足という現実だった。震災直後、FAXがもっといろいろな場所に取り付けてあればここまで困ることはなかったであろう。情報の充実を現在、切に願わずにはいられない。

■宮城県北部地震体験者@の場合
 一度目の地震は寝ているときだった。高いところのものが少し落ちたが、揺れが止まったので、明日確かめようと思いまた寝た。朝起きて、昨日の地震について確認しようとテレビをつけたそのときだった。7時過ぎにしたから突き上げるような地震が起こった。その地震で、家の家具はすべて倒れてしまった。妻が台所で朝食の支度をしていたのだが、作っていた味噌汁が、揺れによってボンッと飛び散った。また、我が家はプロパンガスを使用しており、地震の振動で安全装置が働いたため、メーターが止まり、使えなくなってしまった。その後、3日間はガスコンロを使用して炊事を行っていた。家は、築10年と比較的新しかったため、崩壊はなかったが、土台がコンクリートになっていて、下からの揺れでその土台と接着部分の木がずれてしまい、今も直っていない状況である。また、屋根瓦もすべて落ちてしまった。地震の片付けに三日ほどかかった。また、地震でFAXが壊れてしまい、携帯電話ももっていなかったので、他との連絡が取れなくなって困った。役場に申請に行ったが、地震の事後対策に追われて、なかなか対応してもらえなかった。頭にきたが粘り強く頼む事でやっと対応してもらえた。聴覚障害者は移動に困難がないので対応されにくい。行政の対応の改善を望む。

■宮城県北部地震体験者Aの場合
 夫も聴覚障害者で3人の子供は健聴。1度目の地震は寝ていたときに起こった。地震だと気づいたが、そのままおさまるのを待ってまた寝た。2度目の朝に起こった地震は2階から降りてきたところでそのまま立って地震がおさまるのを待っていた。でもあまりにも長すぎるので、子供たちを起こして外に避難しようともう1度2階に戻ったが、気がつかずに寝ていた。その10分ほど後に停電があったが、情報が入ってこないので、何故停電になったのか分からなかったが、幸い15分ほどで復旧した。地震の後の食事の支度をしようと蛇口をひねったが水が出てこない。おかしいとおもい、風呂場の蛇口をひねっても水が出てこなかったので断水しているとわかった。近所の人や義母ともあまりコミュニケーションはとらないので、何故断水になっているのかまったく分からない状況だった。すぐ直るだろうと、そのときはあまり気にしなかった。夕方になっても水が出てこないので、夕飯の支度が心配になり、近くのスーパーに水をもらいにいった。しかし、家に帰ると水が出ていて無事ご飯を作ることができて安心したが、もらってきた水が無駄になってしまったとおもった。
 次の日の朝、友人からのメールでまた断水していることを知った。昨日汲んだ水は無駄にならずにすんでよかった。その後、子供の母親からの情報で給水車が来ていることを知り、やっと水をもらえることができた。給水車が来ていることを義母は知っていたようだった。子供はその意味が理解できなかったようだった。断水して3日目の朝、やっと水が出たが、赤褐色の水で夕方ごろにやっときれいな水が出て使えるようになった。停電や断水、給水車の情報はすべて音声によるものだけだったので気がつかなかった。情報提供の方法について、行政側ももう一度考えてほしい。

■宮城県北部地震県手連の災害バイクチームの働き
 2003年7月26日0時13分、震度6弱の地震があり、宮城県手話サークル連絡協議会(以下、県手連)では災害メーリングリストを使い、ライフライン、道路状況などの生活に関する情報提供を行った。新しい情報が入り、次第流すので、一段楽したのが3時ごろだった。
 2003年7月27日7時13分、震度6強の地震により又情報提供に走る。(給水車やけが人の情報源は、テレビ・ラジオ・ホームページなどから入手)
 28日バイクチームとして現場へ・・・仙台からずっと走っても地震の爪のあとがないので本当に酷かったのか?と思っていたが、成瀬大橋辺りから景色が一変した。川沿いの路肩はひび割れ、そのせいで車は渋滞しており、警察が交通整理に追われていた。
 矢本町に入ると、屋根瓦が落ちている家が多い道路には亀裂が入っていた。まず、初めに、役場や社会福祉協議会に聾者の安否確認を行った。しかし、避難所に避難しているかどうか聞いても把握できていないので・・・という回答が返ってきたため、直接避難所に電話をかけ、聾者が居るかどうか確認作業を行った。
 実際に避難所に行った聾者はいなかったが、避難所には「聾者が居るときは情報提供手段として書いて掲示してください」とお願いしてきた。(これは阪神大震災の教訓を生かしたもの)河南町では、給水情報を流す広報車が走っていたが、聾者は聞こえないんだろうなと思い情報提供手段について考えながら、バイクを走らせていた。実際に現場へ出向いて、映像と実際ではかなりの差があると痛感した。30年以内に98%以上の確立で大きな地震が来るのに、何も対策を行っていないということが浮き彫りとなり、今回の地震を教訓にして次につなげて欲しいと思った。

<参考>
宮城県3団体合同研修会より引用

最後に・・・
体験者の皆様、貴重な情報を提供していただいたお陰で、無事この資料を作ることができました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。ありがとうございました。


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