■ろう教育の始まり
■ヨーロッパ
 
 古代ギリシャの有名な哲学者アリストテレスは「聾は唖であり、言語は先天的に備わった機能であって、聴力によって獲得されるものではない」と信じていたようである。そして「すべての能力の中で動物の存在にもっとも重要なものは視力である」と述べている。こんなわけで、当時は聾児に発音させることや文字を習得させることは不可能であるという考えが一般的であった。
 16世紀になってイタリアの解剖学者であり、教育者であったAquapen-denteは「唖は聴覚を欠く結果であり、聴覚欠損(聾)は治療手段がないので、自然の方法では話し言葉の習得は無理であるが、教育によって言語学習はできる」と、教育の可能性を述べている。
 たまたま16世紀にスペインの王室では聾児が相次いで出生したので、彼らの教育が真剣に検討された。当時、修道院では無言の業が行われていて、交信手段により身振りと指文字が用いられてきた。そこで王室の聾教育を修道増Ponceに依頼し、身振りと指文字で教育が試みられたが、ここに聾教育の起源を求めることができる。しかし、この時代は特別な人によってごく少数の特権階級の子供が個人的に教育を受けたに過ぎず、「聾教育の可能性が模索された時代」といってよい。
 18世紀になると、フランスでは自由と平等を掲げて革命が起こり、これが聾教育にも及んだ。1760年、神父De l'E Peeがパリ郊外に住む2人姉妹の聾児を自宅に引き取って、身振り語で教育を始めたが、少しずつ充実して1785年には生徒が62人になった。こうして聾教育は身振り語(手話法)でスタートした。その後、ドイツ、イギリス、アメリカと急速に広がるにつれて発音を可能にしようという口話法が普及していった。そのほか、文字を使った書記法、指文字を使った指話法などが用いられて教育界では混乱を来したが、1880年イタリアのミラノで開催された第二回聾教育国際会議で「純口話法」が最良の方法として採用されることになった。


聴覚障害児教育国際会議の決議
西暦 開催国 都市 決議事項
1878 フランス パリ 口話を優先
1880 イタリア ミラノ 口話法を推進、就学を8〜10歳
1883 ベルギー ブリュッセル 1学級10人、教師は2年継続
1900 フランス パリ 職業教育、教師に採用
1905 ベルギー リュージュ 学校の公立移管
1925 イギリス ロンドン 16歳以上の教育、全世界に聾学校
13 1970 スウェーデン ストックホルム 早期教育
14 1975 日本 東京 補聴器活用の推進
15 1980 ドイツ ハンブルグ 口話以外の方法も採用


■日本

 ここで日本の歴史を振り返ってみよう。
 江戸時代には、盲人の保護政策は早くから取られ、特に琵琶法師など音楽を主体に有名な人が出ているが、聾唖者は知能障害者と同様に放置されていた。このような状況の中、福沢諭吉が欧米視察から帰国して明治2年に「西洋事業」を出版し、この中で聾教育について「亜院は唖人を教える学校なり、唖人数百人集めて、語学、算術、天分、地理を教授すること異常の学校と異なることなし」と述べている。また山尾庸三が明治の初めに工業技術習得のためイギリスに留学中、造船所で聾唖者が普通人と同じように労働しているのを知り、帰国後、盲亜学校創立の意見書を政府に提出した。
 こうして聾教育の必要性が強調される中、明治8年古河太四郎が京都の待賢小学校に盲唖教場を設けて盲児と聾児を一緒に教育した。そして彼の努力が実って明治11年(1878年)、京都に盲唖院が創立された。これが日本における盲聾教育、ひいては特殊教育の開始を意味した。
 盲児と聾児を同じ教室で教育をした記録によると、興味深い事実があるので紹介しよう。それは算数教育であるが、聾児は聞こえなくても見ることが出来るので、算数の初歩である数かぞえや足し算、引き算は聾児の方が理解が早くスムーズに授業が進んだであろうと想像できる。しかし、実際は、その逆で盲児の方が早く上達したという。聾児は物を見て視覚的位置関係を理解することはできても、それから先の志向ができないのである。思考は言語に負うところが大きいので、その点、盲児は見えなくても、言語発達が聾児よりも進んでいるので、知的活動には有利であることが証明されたわけである。
 その後、盲唖学校は盲学校が中心で聾教育はこれに付属する形で拡充が進み、大正12年に盲学校と聾唖学校が分離されてからは、それぞれ独立して学校が新設されていった。明治、大正は富国強兵が強調された時代であるため、知能障害児や肢体不自由児へ教育の手はほとんど差し伸べられず、篤志家が私財を投じて収容施設という形を成すのがよっとであった。
 昭和になって特殊教育は進んだが、特に第二次世界大戦後、アメリカ教育使節団が来日して教育改革を行い昭和22年に学校教育法が制定されて、6・3制義務教育が確立するとともに特殊教育の中でも早くからスタートした盲・聾教育が義務化された。さろと同時に、これまで「聾唖学校」といっていたのが「聾学校」と改められ、「唖」を削除することになった。その理由は、聾は治すことが不可能であっても、唖は教育によって克服できることが証明されたからである。
                                     ※東北大学出版会「聴覚と言語の世界」



■ろう学校では?
 耳の聞こえない子供達が通うろう学校が、現在、全国に約100以上あります。
ろう学校はひとつの学校の中に幼稚園から高等学校まで入っていることが多く幼稚部、小学部、中学部、高等部という呼び方をしています。ろう学校は、数が少ないために、寄宿舎(寮)を持つところが多く、子供達は、そこで集団生活の中で学びます。
 ろう学校では一般の学校と同じような科目の学習と同時に、発声練習や聴能訓練を行っています。発声練習は、声帯や唇、舌等耳の聞こえる人と変わりがないため、訓練によっては、声を出すことができるということから、さまざまな機器をつかっています。また聴能訓練とは、補聴器を使い、残されている聴力を最大限に生かすことをめざした訓練です。これを『聴覚口話法』といいます。
 現在、日本のろう教育では手話が正式に認められていないので、手話を知らない子供達が大勢います。『手話法』は、発声や聴能訓練のさまたげになる、ということから否定されてきたようです。しかし最近では、トータルコミュニケーション(あらゆる方法を使ってコミュニケーションを図る)の理論も導入され、ろう学校にも少しづつ手話が取り入れられるようになってきました。
また、『インテグレーション』といって、ろう学校から普通学校に転校する例も増えてきました。


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