■聴覚障害者と運転免許
まず道路交通法について考えてみたい
1919年 自動車取締り令
 日本で最初の自動車運転に関する法令である。「精神病者・聾者・唖者・又は盲者」を運転免許交付の欠格事由とした。

1947年 自動車取締り令を廃止

1947年 道路交通法取締法
 運転免許を受けたものが不具廃疾者となった場合などに、免許を取り消しし、または停止する権限を公安委員会に与えた。後の道路交通法のように、はじめから免許を交付しないという欠格条項は含まれていなかった。しかし、政令の形で障害や病気への制限が次々と加えられていった。

1960年 道路交通法成立
 88条で「目が見えない者・耳が聞こえない物・口がきけない者」「知的障害者(制定当時は精神薄弱者)」「癲癇《てんかん》」「精神病者」に免許を与えないとした。

2001年 道路交通法改正
 88条は削除。
 90条で「運転免許試験に合格したものに対して免許を与えなければならない。ただし、幻覚を伴う精神病・発作によって意識障害又は精神障害をもたらす病気・自動車等の安全な運転に支障を及ぼすおそれのある病気の者には免許を与えない、又は6ヶ月を超えない範囲内で保留できる」と定めている。
 →新法も病気や障害をさして「免許を与えないことができる」条文を引き継いでいるため、障害や病気はあるが、安全に運伝できる人に免許を与えない可能性がある。
 実際に宮城でも、以前は耳が聞こえていた人が失聴し、これまで何十年も免許を更新してきたにもかかわらず、2002年、免許を更新しようとしたところ「耳が聞こえない」ことを理由に更新できないということがあった。その人は高価なデジタル補聴器を取り寄せ、免許の更新が許可されるのを待っている。
 1960年の道路交通法により、運転免許取得への道を閉ざされた聴覚障害者だったが、「聴覚障害者にも運転免許を!」という働きかけは次第に広がっていった。そして、それは樋下光夫さんが起こした運転免許裁判により、はっきりとあらわれたと言えるだろう。
■樋下光夫の運転免許裁判
【裁判を起こすまで・・・】
 聴覚障害者である樋下光夫さんは仕事の都合で運転免許が必要だった。しかし、1960年の道路交通法により運転免許試験で補聴器使用は認められておらず、対話ができない者には運転免許取得は許されていなかった。だが、樋下光夫は背に腹は変えられないと、無免許運転を繰り返した。略式起訴による略式命令で罰金支払いの処分に従えば、その場は済む。しかし、その処分も十数回を超えていた。
 当時、岩手県ろうあ協会事務局長や東北ろうあ連盟理事などを務めていた樋下光夫は、それらの活動を通して知り合った仲間の紹介で、聴覚障害を持ちながら、弁護士をしていた松本昌行を出会った。そして、樋下光夫は聴覚障害者に対する免許交付を求めて裁判を起こすことを決心した。

【裁判の行方】
 1967年、樋下光夫は略式手続きを拒否して正式裁判を請求。樋下光夫は「昭和42年7月13日から11月6日までの間に5回、運転免許を受けないで自動二輪を運転し、道路交通法64条に違反した」と12月28日、盛岡地方検察庁により盛岡地方裁判所に起訴された。こうして、運転免許裁判の幕が上がった。
 この運転免許裁判を、全日本ろうあ連盟はろうあ者全体の問題であるととらえ、組織的に支援しようと決心した。
 樋下光夫の弁護人は、盛岡の田村彰平、大阪の松本昌行両弁護士が担当した。松本弁護士は「眼鏡の矯正を認めながら、補聴器の使用を認めないのは不公平」「はっきりとした理由なく免許を持たせないのは職業選択の自由を認めている憲法に違反する」陳述した。公判で証人に立った人たちは、ろうあ者の生活に自動車が必需品であること、外国ではろうあ者が運転免許を取得していること、運転して耳が聞こえないからといって困ったことはないなど、それぞれの立場から証言した。
 1969年6月、盛岡地裁は「道路交通法は合憲」と樋下光夫被告に懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決を言い渡した。弁護団が直ちに仙台高等裁判所に控訴した。
 1969年11月からの仙台高裁での控訴審では、画期的な出来事として傍聴席に初めて手話通訳が立つことが許された。
 1972年7月、運転免許裁判は全面敗訴した。細野幸男裁判長は「耳の聞こえない者に運転免許を与えない道路交通法の規定は不特定多数の人が利用する道路安全を確保するため、合理的な制限である」と言い渡した。樋下光夫は不服として最高裁に上告した。

【聴覚障害者の運転免許に向けての第1歩】
 仙台高裁での「耳の聞こえない者に運転免許を与えない道路交通法の規定は合理的制限」という判決とは裏腹に、警察庁は道路交通法「10メートル離れて90デシベルのクラクションが聞こえること」の枠内でできるだけ聴覚障害者にも運転免許取得の機会を開く方針で全国の警察を指導した。
 警察庁は各都道府県警察本部に対し、ろうあ者の運転免許についての運用通達をだし、運転免許取得希望者に対する聴力検査には補聴器の使用と認めた1973年のことだった。
 この通達によって、翌年1月に樋下光夫は原付免許を取得。直ちに樋下光夫は仙台高裁の判決を不服とする上申書を最高裁に提出した。そして、2月には普通第一種免許を取得した。

【結審・・・そして、この運転免許裁判の意味するもの】
 1974年、最高裁はこうした流れに反し、「道路交通法は合憲」と、一審・二審判決を支持する判決を下し、樋下光夫の上告を棄却した。樋下光夫の運転免許裁判は終わった。
 樋下光夫は裁判を振り返って、「裁判で負けることは、はじめからわかっていた。名(裁判)では負けたけれど、実(免許)は取れたので、自分としてはそれでよかった」と語った。
 裁判自体は敗訴という形で終わったが、専門家と結びつくこと、幅広く国民と連帯し、世論を味方につけて運動を進めることなど、これ以後のろうあ運動のスタイルの基本となる方法を全国に周知したという意味では、大きな意義のある取り組みだったといえるだろう。


トップページに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送